花形装飾活字を愛でる その179

花形装飾活字って単なる素材なのかな。なのだとすれば、ちょっと残念かな。結局なんというかカルチャーやファッションに言及しちゃってもいいと思うんだよね。僕らに元々備わっているものなんてない、というのが日本人の根本でもあるから、ああ、こういう民族性で、なんかこう流行とか廃りとかも含めて、鎌倉時代以降となんら変わってねーという。最近知ったんだけど、仏像にしろ、寺の荘厳さにしろ、結局は人の目を惹きつけたいが為の手段にしか使えてないっていう、元々の日本人の文化に対するポップな目線というのは、今もずっと変わってないよなという感じ。民族的な意識に辿り着いたのだって、100年も昔って訳じゃないし、それこそ明治以降のアイデンティティだったりする訳じゃん。だって、スゲー話だべ、それまで何百年も持ち続けてきた文化をポイしちゃって、ちょんまげも含めてポイしちゃった訳でしょう。で、戦後にそれがもう一回あった。この国は、なんというかスゲー、器用、それ故に持ち合わせてる深さみたいな重みがゼロっていう。思想で突っ走らない感じが凄くよいとも言うし、民族的な理想もとくに掲げていない。どちらかというと、無理矢理に国民という暗示をかけられているだけで、その輪というのは、薄く細いものだと思うんだよね。でね、なんでこういう事書き始めたかというと、伝統は伝統として残っているけれど、今はほとんど機能してない訳じゃないですか、デザインをしてリバイバル的な扱いを受けているものもあるものの、それを扱う真相というのは、とことん浅い。例えばさ、この感覚で、深い重い、文化というのを浅いところで作ったら面白いと思ったんだよね。それこそグラフィックデザインの可能性でもあるし、花形装飾活字という面白いおもちゃがあるってなもんで。変に日本の伝統をリバイバルだと、終着は目に見えてると思うんだよね。時間という経過のものだから、そりゃ深みもあるし重い。でもその行動というのは掬い取るくらいの事しか出来ない訳。それを掘り下げていく作業が出来るほど、あいつらは変化を望んでいないし、維持していくのに必死ささえ感じるんだよね。まあ、それはそれで成り立っているから良いとして、ようは、今から花形装飾活字を使って、伝統を始めてみたらという提案なんだけど、どうかな。ちょっと面白いと思うんだけど。結局そういう事だと考えてるんだけど。ボクと一緒に、あなただけの花形装飾活字を作って、「所有」してみませんか。時間は少しかかるし、一緒に考えていかないといけないから、サービスみたいには無理だろうけど、もし、よかったら声かけてください。お待ちしてます。