寅屋印の花形装飾活字無料体験版セット

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https://fengfeeldesign.booth.pm

 

寅屋印の花形装飾活字ベクターデータ体験版セットです。 全てがアドビイラストレーターにてアウトライン化した、アドビイラストレーター10形式(.ai)のデータです。 セットのリストは以下の通りです。 また、プチシリーズの全て版が使える製品版はこちらからご利用いただけます→ 

https://fengfeeldesign.booth.pm/items/19510

 

・kado the 108

http://printersflowers.fengfeeldesign.org/?eid=807296

 

・PRINTERS’FLOWERS from ブルース・ロジャース

http://printersflowers.fengfeeldesign.org/?cid=36399

 

・各種プチシリーズ

https://www.facebook.com/media/set/?set=a.769197686433272.1073741830.448496981836679&type=3

 

 

花形装飾活字についての詳しい情報はこちら→ 

http://printersflowers.fengfeeldesign.org

 

五目紙物店寅屋についてはこちら→ 

http://torayapaperandproducts.tumblr.com

ひしがたり

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http://torayapaperandproducts.tumblr.com/

「ひしがたり」の世界にようこそおいでくださいました。 「ひしがたり」は空に散りばめられた星々をオブジェクトとし、それらを手に取りながら自由に制作する事が出来るオープンワールドな花形装飾活字です。「グラフィックデザインの喜びを好きなだけご自由に」 fengfeeldesignによる「ひしがたり」の世界をお楽しみいただけましたら幸いです。

大きいサイズの全ての説明画像はこちら→ http://www.fengfeeldesign.org/printers_flowers/hishigatari/hishigatari_img.zip

■商品概要
全てがアウトライン化された510個の形の違うオブジェクト/21個の予め用意された菱形ユニット ファイルはアドビイラストレーター形式(.ai)の全てのバージョンに対応 ※ただしダウンロード販売からのご購入はver10の(.ai)に統一しております。

購入はこちらから→ https://fengfeeldesign.booth.pm/items/16292

「紙と印刷というものについて、そしてデザインへの眼差し。」

http://printpubnews.tumblr.com

グラフィックデザインの歴史は、けっして長いものではありません。例えば、バウハウスでの美術労働教育の始まりをデザインとするなら、1919年、が始まりという事になります。印刷は1445年に、ヨハネス・グーテンベルク活版印刷を開発した、とされています。まず、この400年以上にものぼるブランクをどう埋めればいいのでありましょうか。日本においては、ウイリアム・ギャンブルによって明朝体が齎されたタイミングを印刷元年とするなら、1869年(本木昌造が招致したのが)となります。果たして、このような、たかだか100年を少し越えたぐらいの短い時間の中で、日本人がグラフィックデザインで印刷を語る事は可能でしょうか。

原初としてのグラフィックデザイン的なものは恐らく日本にもあったでしょう。しかし、印刷と呼ばれグラフィックデザインとされたように、命名されたものは無かったのではないでしょうか。バウハウスが生まれたのが、ドイツである理由は、製造業が盛んな事が大きな要因にある事は容易に想像が出来ます。その上での陸続きの多様化された文化としてのヨーロッパが、今日に至るデザインを形成しているのだと考えています。それでは私達は日本で何を作っているのでしょうか。デザイナーと呼ばれている人達は何を従えて制作に勤しんでいるのでしょうか。もし、紙が誕生した2000年以上前から始まる、これらに纏わる製造の歴史の中で、グラフィックデザインというものを見据えるのであれば、果たして、私達はどれほどのものを携えながらグラフィックデザインというものに接しているでしょうか。

今、日本において、印刷という技術に最も精通していて、影響力の大きい第三者の存在は「グラフィックデザイナー」です。しかし、現在、そうであるはずのグラフィックデザイナーにも1つの問題が浮上しています。それは、印刷を知らない事です。印刷を司るポジションに居るはずのグラフィックデザイナーが印刷について不勉強な状況が発生し始めたのです。これは、推測ではありますが、想像していたよりも、印刷の現場にデザイナーという存在が関わっていなかった事を示唆しており、マッキントッシュやアドビに関連するDTPの環境がグローバル化した時に、海外と日本の状況に最初に述べた圧倒的な時間を含めた様々な誤差が生じたのでは、と想像しています。

その中で、同時に近年、印刷の技術を補完する動きが活発になってきました。しかもそれは、ほとんどの場合が「グラフィックデザイナー」を対象としているものであり、「グラフィックデザイナー」自身がそれを必要としている現実が其処にあります。「デザイン」とは何か、なんて事を問うような無粋な真似はしませんが、今、印刷というものにどう関わっているのか、というものを、デザイナーに限らず示す事は今日において非常に重要であると考えています。紙と印刷という組み合わせを、どのように扱っているのか、その善き例を知っているのは、「グラフィックデザイナー」に限らないという決定的な証拠と、同時に、より印刷をウマク使っているのが「グラフィックデザイナー」である、という実証を得られた事は、今回の展示での大きな成果であったように思います。

本展では、かつてあった「ウィーン分離派」の動きに似た様相を、今回、出品したメンバーから感じており、「グラフィックデザイン」というものを様式化した場合に、それから脱却した制作や、それを謳歌している制作など、様々な結果を得る事が出来ました。これらを意識して制作しているという事は、少なからず思想や様式的な何かとして、かつての「グラフィックデザイン」をある距離感を置いて見ているものであるのと同時に、印刷に対して、どのような眼差しで見ているか、という点において、全体的な総評として、しっかりと「技術」に依存する形で落とし込んでいる事は、日本においての「グラフィックデザイン」が、まさに生まれようとしているのでは、という大きな期待と、今までの「グラフィックデザイン」としていたものに対する、一種の決別のようなものがあるように感じました。もしくは、本展が紙や印刷に対する、なんらかの歴史的な意味を持つ事になるのであれば、この動きが、これから続くであろうデザイン史の1つとして、刻まれる事を強く願っています。

fengfeeldesign 阪口哲清

 

 

 

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PRINTPUBは、印刷の世界を公開するシーンの1つとしてスタートをいたしました。活動期間も2年が過ぎまして、その間にはfengfeeldesignの周辺を主体とした印刷加工を公開して参りました。また、会員を募り、その人数も30人を越えまして、そろそろ会員の皆さんと絡み乍ら制作&パブ(公開)が出来ればという考えにいたり、今回、ペーパーボイス展覧会「PRINTPUB01」を開催する運びとなりました。昨今、印刷技術の補完の動きが活発化してきました。この動きというのは、かつてのウィーン分離派ように、様式に捉われない制作を目指した時に生じた、技術の抽出作業に非常に似ているような気がしております。今回の展覧会では「デザイン」という様式を主体に置かず、「印刷加工の公開」とする事で、デザイナーによるデザイン主体の展覧会ではなく、「印刷加工」に纏わる技術や知恵や恩恵を主体とした展覧会に仕立てております。本展では実際に印刷物を自由に手に取っていただき、それらを流布、もしくは無料配布する事で、同時により多くの方に印刷物との関わり(印刷所、デザイナー、作家、営業…etc、全ての)について考える機会になればと思います。

開催場所:
平和紙業株式会社 ペーパーボイス大阪 〒542-0081 大阪市中央区南船場2-3-23
http://www.heiwapaper.co.jp

期間:
2014年3月17日(月)~3月27日(木)/時間:9時00分~17時00分
※土曜日、日曜日、21日は開催しておりません。
※最終日の27日(木)は14時00分で終了いたします。

出品者:
小玉文/小熊千佳子/野田久美子/特撮ギター研究所/若井真/西田優子/町田宗弘/竹田正典/勝田麻子/長田年伸/Mujika Easel/松本瑠美子/丸山晶崇/宮崎菜通子/O-PUB/黒子

PRINT PUB 01 展示印刷物仕様目録のpdf版はこちら
→ http://www.fengfeeldesign.org/print_pub/printpub01_itemlist.pdf

花形装飾活字を愛でる その213

http://printersflowers.fengfeeldesign.org

 

単色における造形が、その熟知出来る程度の情報量が、hugで一旦の完結かもしれません。それは、単色による可能性が無くなった、という話しではなく、単色というステップが次に進む事を視差しています。データである以上は、数値の変化の域を出ません。それはデジタルカメラが銀塩写真に取って代わる程の解像度を得られていない以上は、それが、光を変換する方式において、化学をサンプリングした科学でしかない現実を、まずは直視しなければならないと思います。化学、とくに物理学は観察でもって、その全てを決定付けますが、科学は一種のイメージングの世界を延長線であるとも言えます。それが単に数字だけでなく、言語や、図形に、その範囲は広がります。そうです。イメージングの世界が織り成す、夢のような現象が、今のデザインでは可能なのです。化学による影響の範囲がギリギリまで抑制された、科学の世界でデザインし、それを実像として表す事が出来ます。多分、それが、デジタルカメラと、銀塩写真の違いな気がします。意識の中で、もしその違いを説くのであれば、現象だけで踏みとどまるべきではありません。その意識まで至らなくてはならないと思います。それは、タイミング、です。意識のタイミングの違いを与える、イメージングな世界の変化については、無視はしてはいけないでありましょうし、同時に、hugで最も拘った箇所であるかもしれません。タイミングと言えど、様々なものがあると思います。手放す、もそうですし、予想の範囲、もそうだと思います。デジタル以降は、これらのタイミングがとても遅いタイミングで可能になったと言えます。これは科学、すなわち、人のイメージが、物理化学、すなわち、印刷加工に移り行く境界線のようなものの、時間とバランスが、圧倒的に前者において増加傾向にある、という状況そのものが、昨今の事情を作り出しているように感じています。今まで、専門性を持っていた事、人が不要になり、しかも、それらも、ある程度自動簡略化され、すると同時に余地が出来ます。今は、その余地をどうするか、という所で、いろんな人が動いているのだと感じるのですが、fengfeeldesignがやっている花形装飾活字に関連する動きも、まさに、その動きであるとも言え、同時に、hugこそが、そこに投じる、最新の思考であるとも言えるのです。データの終着点。データの完成。言わば、そのデータの有り様の考え方こそが、花形装飾活字から捥ぎ取った最良の知恵であったと考えています。

花形装飾活字を愛でる その212

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ここで扱っている花形装飾活字は、他の素材よりも、いささか使いづらいかもしれないが、ちゃんと操作方法やUIについては、かなり検証して、それぞれのクセのもと、ある程度の慣れさえこなせば、ある一定の組みの実現が容易くなるように出来ています。とくに「hug」の場合は、それが色濃く反映された道具であるように感じます。水草の時に得た、自由と、fujiの時に得たルール、の善き経験値を円を主体とする事で、それを実現しました。水草も、fujiも、重ねる事を基本としていますので、それらを、いかようにロジックに行う事が出来るか。が、hugを考える上で非常にポイントとなった箇所でもあります。重ねても善し、並べても善し、自由に配しても善し、または円を中心とした、回転や、それらに付随する十字の線のガイドを活用し、非常に汎用性に優れたデザインが実現出来ました。上下左右の反転の美しさ、サイズを変えた時にも、装飾としての機能を損なわない事など、あらゆる点で、fengfeeldesignが制作した他の花形装飾活字を凌駕しています。もちろん、それぞれが、それぞれに、突出した魅力がある訳ですが、hugが特別に凄い制作であったのは間違いないように思います。「hug」で目指した事の1つは、独立しない事です。先の水草と、fujiでは、例えば、文章などと並べた時に、内容との連携が少し弱く、少し、装飾の方が勝ってしまう為、その扱いが少しシビアな点がありました。この点は、hugでは、starsや浮雲の時のラインの取り方を参考しながら、ただ繋げるのではなく、繋がった時にちゃんと描画されている事や、1つの世界を構成出来ている事、そして、単に直線的な繋がりではなく、なんらかな図形を描かきながらの連結である事を意識しました。そうする事で、使用者に一定のルールを与えつつも、使用者によっての扱いのランダム値が上がる事が確認しています。とくにそれは浮雲の時に強く現れるようで、組んでいる感覚はとても浮雲には似ているかもしれません。浮雲の動作で、水草やfujiのような絵が作れるのは、hugでの1つの大きな発見でありました。また、浮雲での不自由さを、円によって取り除いた経緯を考えると、このシステム自体は、浮雲からのバージョンアップと言っていいような気がします。

花形装飾活字を愛でる その211

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最近のデザインが、とても感覚的になってきている印象があります。ほんの2年前のものを見ていると、ほんのり感覚が浮き出る程度だったのですが、今は、全面が感覚によって支配されていて、見る場合にも、これが善い、あれが善い、という感じで、確定的な部分ではなく、あ、なんだかいいなーというぐらいの、なんともフワフワした、まさしく感覚で捉えるような見方をしているような気がしています。それに関して言えば、やれ、そんなのはグラフィックデザインではないとか、これ、そういう見方をするもんじゃないとか、古臭い、爺さんみたいな事を言うつもりではなく、それは、リアルタイムに生きている人達が楽しむ趣向のようなものの変化であり、それに合わせて、変わっていくものであり、だからこそ変わらないものの膨よかな表現が存在するという話しだからなのですね。これは、恐らく、昔から繰り返されている事だと思っていて、デザイン、という、ある程度に確定された意識で構成した思想から、少し、何かが変わりつつある、という事だと思うのです。絵画で見てみると、レンブラントフェルメールって、同じオランダで、時系列も良く似た時代に活躍した画家なんですが、レンブラントの方が古臭く感じ、フェルメールは少し新しく感じます。ほんの少し、ほんの少しだけの差なんですが、レンブラントは、これは僕の印象としては、感覚で描いていたのではないかなーと想像しています。感覚を技術で表現した、みたいな。逆にフェルメールの方が、若いんですが、技巧派というイメージがあります。なんというか、技術に感覚をウマい事よいしょってした感じなんですよね。技術と感覚のバランスで、こんなにも描かれる対象や、印象が変わるのはとても面白い事だなと思います。ルーベンス、ハルスを見てみると、時代は彼らより古いのに、より感覚的な絵画が多いような気がします。ハメパターンが出来上がる一歩手前の充実感のような…。つまり、感覚が先行している今の状態というのは、何かの技術の基でそうなっているし、感覚と技術が飽和状態にある時に、このような状態になるのではないか、と考えてまして、技術が安定しているからこそ、感覚的になれる、そして、感覚が進行する事によって、新しい技術が登場し、感覚が、また1から育まれていくような、そのような繰り返しが、ずっと行われてきていて、その1つの流れがデザインであった、というだけの話しのように思うのです。今、しかも、デザインの過渡期だと感じています。それは今までの歴史推考から言っても、かなり、そうだと思います。素晴らしき技術は古くても残り続けていきますが、感覚は、どんなに素晴らしくても、時間が流れると淘汰されます。淘汰されなかったとしても、実現が不可能であったり、過去であったりします。今、fengfeeldesignが花形装飾活字に対して、何故に、こんなに熱くなって接しているかというと、デザインの過渡期だからこそ、純粋に、デザインという思想、もしくは感覚が生み出した素晴らしき技術の継承を、今、行う事で、後世へ残す為なのです。この技術は残るべき、だと思うからなのです。残す事で、次の新しい感覚の中で、この技術は花を咲かせる事でしょう。実際に、既に古い技術ではありますが、それらを汲み取り、感覚と照らし合わせ発展させる事で、「hug」という素晴らしき、花形装飾活字を生み出す事が出来ました。感覚的な状態になってるからこそ、デザインが何を生み、何を技術として残した、のかを考え動く事は、今のデザイナーの使命のようにも感じています。

花形装飾活字を愛でる その210

http://printersflowers.fengfeeldesign.org

 

ここまで書いてきた事というのは、何も局地的で、此処だけの話し、というものではないと思います。音楽のシーンでも、アートのシーンでも、そういう現象って起こっていると感じていて、もしくは、本来、そうであったのが、段々と、理解する人達の中で育まれて、キチンと形になって目に耳に感じる事が出来始めている状態とも言えると思います。それを強く感じたのが、kajico(http://kajico.org)やナデガタインスタントパーティ(http://www.nadegatainstantparty.org)になりますでしょうか。ムジカイーゼル、もしくは、ラベンダーピローの動きそのものでもある辰巳さんがそうかもしれません。それが作品化する瞬間がもちろんある訳ですが、それを仕組む動作やシーンの構築は、まるでデザインそのものであるように感じるのです。手法が特異なのは、たしかにあるのですが、紛れも無く、その行動にデザインを見る事が出来ます。その結果、芸術的な作品が生まれている状況がある、という事も事実として捉えた方がいいのかもしれません。それは、デザインと芸術とが、別ものであるという意識から、既に遥か遠く先へ行く話しであり、もっとリアルタイムにモノごとは起こっているのです。とくに、傾向として、デザインを利用した仕込み的な部分を芸術は利用する傾向にあるように感じていて、それを見るに、過去に、花形装飾活字で起こっていた事が、リバイバルし、サンプリングとしてのデザイン、それを謳歌する芸術として、別々の道筋ではなく、実は、1つの1本の道筋として存在していたのではないかという考えを、今は持っています。そして、既に、次は何を見るか、という視点に立っているタイミングにあり、デザインというものが、もはや、伝統芸能並の意識の古さを持つ事になりそうな予感さえしています。果たして、自分がやっている事とは何なのか、それを知るきっかけとして、エンスヘデの花形装飾活字は、とても参考になる素晴らしき資料なので、ぜひぜひ文章をお待ちしております、なのですが、それをfengfeeldesignでは、あくまで、デザイン、とくに、グラフィックデザインを基にしながら、花形装飾活字という範囲の中で、西洋を廃し日本という視点で発展をつくっていく動作の中で、作り上げた最先端が「hug」にあたる訳です。ただ、これは、花形装飾活字である以上は、芸術への昇華は難しく、それが使われる事で、その役目と成立を委ねているという所に、なんとも言えないもどかしさがあります。ていうのも、fengfeeldesignがもし使ってしまい、芸術としてしまった場合に、それはもはや、道具としての価値を失い、fengfeeldesignのものになってしまうので、そこだけは、どうかして避けたいのです。だからこそ、なんですが、fengfeeldesignが取り扱う花形装飾活字というのは、あくまで組み見本として扱う場合がほとんどで、本来は、第三者の誰かが使い、それが、芸術として扱われる事によって、fengfeeldesignが作った道具、ルール、仕組みとしての誕生を見る事が出来るのです。