花形装飾活字を愛でる その69

紹介しておりますエンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
詳しくは
http://www.fengfeeldesign.org/をご覧ください。
お待ちしております。

花形装飾そのものは、
時代に関係なく使われてきましたし、
今もドンドンと作られてます(どちらかというとノスタルジー的ですが)。
花形装飾活字に言えば、
テクノロジーの点から言っても、
時代遅れのようです。
単に装飾であれば、
今のコンピュータのテクノロジーを使えば、
容易に手描きであっても複製が出来、
活字なんて体裁を取らなくて、
その役割を担ってくれる事でしょう。
やはり、
時代の中で、
花形装飾活字無くなる大きな一手でもありましたし、
しぶとく使っていくというのも何か違う気がします。
銀版をもう一回彫るくらい意味の無い事だと思うのです。
もちろん、
それに可能性があるのだとすれば、
否定をするものではありません。
写真の存在も、
花形装飾活字を衰退するには充分なインパクトでした。
というのは今まで書いてきました。
今回は、
その中で花形装飾活字という可能性が、
どこにあるのか解説出来ればと思います。

大きな問題はシーンがそれを求めていない事にあります。
それを扱うシーンが限りなく少ない事でしょうか。
もしかしたら印刷の本場のドイツあたりなら考えられなくはなさそうですが、
カリグラフィーにしろ、
そのポジションはメインでないのは明らかです。
メインは写真でありイラストなのでしょう。
その可能性にグラフィックデザインは集中しています。
伝達という意味では写真は格好の手段ですし、
同時に装飾的でもあります。
イラストが印刷で使用出来る時点で、
活字のその役割を影を潜めるのは偶然ではなかったはずです。
テイストという言葉でもくくられてしまいそうです。
ノスタルジー。
それが基本にあるようにも思います。
書体、
であれば、
その世界に広がりがあります。
ノスタルジーではなく、
現代的なアプローチな発展が見られます。
常に変化があり、
伝達手段のメインとして、
明らかにその利用は無くなる事は当分なさそうです。
まさにそれを彩る争奪戦に負けちゃった花形装飾活字、
だからといってそれがまったく機能しないという判断は、
いささか急ぎすぎです。
最初にも書きましたが、
重要なのは、
扱うシーンが少なすぎる事にあるのです。
で、
ここでグラフィックデザイナーの存在が鍵を握ります。
技能の在り方は別の話題になりますので置いといて、
シーンを作るのはグラフィックデザインの役目なのです。
それをキチンと使えるようにする作業が、
今のグラフィックデザイナーには求められていると言い切っていいと思います。
絵を作る事がグラフィックデザインだと勘違いしてしまっている現状が、
もちろん絵を作る事は大切な1つな技能なのですけど、
それだけだとグラフィックデザイナーたる視点としては、
足りないのですが、
そういう事を書いていると、
本題からドンドン離れていくので、
これも置いといて、
そうなのです。
シーンの作成させすれば、
花形装飾活字そのものは素晴らしい機能を持ったものですから、
すぐにでも実用的に使えるのです。
ただ難しいのは、
その時間の在り方の違いです。
形式ともいいましょうか。
写真であれば、
撮影すればそのフォーマットを簡単に変える事が出来ます。
イラストも描いてしまえばいいのです。
が、
花形装飾活字はそうはいきません。
一度作ったフォーマットはそう簡単に変える訳にはいきません。
これが、
現代において、
置き去りにされた大きな要因であると考えています。
そして何よりも、
そのフォーマットを作成する事は非常に難しく、
「時間」がかかります。
書体の作成にも同じ事が言えますが、
違うのはその利用は非常に限定的であるという事が挙げられます。
「時間」の概念のミスマッチが、
今の現状を生んでるとしても、
文章のその整理性に関していえば、
今まで散々書いてまいりましたが、
その能力は他の追随を許さない出来になっています。
時代は整理性よりも伝達性を選んだ結果が今の状況であり、
それと平行して、
グラフィックデザイナーの在り方も、
その画面の伝達性に集中する事になります。
それが今のグラフィックデザインとして成り立っている訳です。
この時代性を変化させてまで、
花形装飾活字に可能性を見出そうという事ではありません。
何回も書きますが、
重要なのは「シーン」なのです。
グラフィックデザインとしてボクらが認識しているシーンとは別に、
違うグラフィックデザインを構築してしまおうというのが、
今回の書くべき可能性です。
今回のダウンロードで臨むべきは、
別に花形装飾活字が活躍する事ではありません。
それが世間的に大きな事になっていく事ではないのです。
その世界の広がりには期待はしていますが、
核心の意図としては実は別にあります。
それはまた今度。