花形装飾活字を愛でる その117

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花形装飾活字の何をローカライズするのかという点については、
かなりの多くの時間を費やしてきました。
今回はその事についてです。
問題点としては、
ローカライズの時点で英字に合わなくなる事は避けなくてはなりません。
という事は、
英字と花形装飾活字の関係性のみを意識していては、
日本語書体に合わした時に、
同じように英字では使えないものになるのは目に見えています。
何を底辺としローカライズとするのか。
ついつい、
離れた場所の文化と文化を相対して見る時に、
この場合はとくにそうですが、
近いものを搾取して見る傾向にあります。
そして、ローカライズも近いものがやはり基準になりがちです。

以前に、
花形装飾活字は高い確率で、
形式から離れ華やかになり技術的にも満たされたものは、
宮廷の文化を取り入れており、
一番近いのが建物と庭の関係であると書きました。
個々の美的センスや装飾は庭そのものから影響を受け、
総体的な配置の在り方は建物からの壮観そのものであると思うのです。
これをヒントに、
まず一般的な数奇屋造りの建物を調べました。
城ではなく家屋にしたのは特に理由はありませんが、
ただ、日本において「庭」という文化で遊んでいたのは家屋であり、
必ず庭がある数奇屋造りの建物には茶室が備えられ、
その関係性の密度は城(寺院も含む)では得られないと考えました。
もしかしたら城でやってたらまた違うもんが出来てたのかもしれませんが…。
今回は庭と密接という意味で家屋でした。

そして、いろいろ調べていく内に面白い事がわかります。
西洋の庭と日本の庭とでは明らかに違うものが浮かびあがってきました。
たくさんあったのですがキーポイントになったものだけ書きます。

日本の庭と西洋の庭の圧倒的な違いは、
イメージの所在です。
西洋の庭は全体を楽しむように庭と建物が一体となり景観を作り出しています。
人が庭に入り行くイメージも中心部分は変わる事なく、
その中心部分を維持したままの、
定着し完成された美意識をイメージの所在としています。
これは先のエンスヘデのものと意図が一致します。
一方、
日本の庭は中心が存在していません。
そもそも数奇屋造りの建物というのは中心が存在せず、
それぞれの部屋の役割で配置を決めています。
多くの場合に各部屋は庭に面しており、
庭を介してそれぞれの部屋にいけるようにも配慮がなされています。
そして面白い事に茶室に関しては外界からの風景を遮断するように配されているのです。
茶室については後々書いていきますので置いといて、
では、日本の庭のイメージの所在はどこか。
とある数奇屋造りの建物の客間で面白い事がわかりました。
結論をまず書きますとイメージの所在として「人」を中心に考えたのではないかと思うのです。
客間には上座と下座があります。
その建物の客間では上座から一切の庭が見えないようになっており、
唯一、下座に座った場合に上座の後ろにある2つの障子窓から紅葉が綺麗に見えます。
あ、あと2人が共通して見れる丸窓もありました。
そして一番ヤバイと思ったのが、
つまりそれは人が居ないと完成しないという事です。
あああ、伝わってますでしょうか。わかりますでしょうかこの違い。
単に建物と庭の風景ではなく、
これって凄く面白いと思うんです。
とある商屋では女中の部屋のみ一切の庭との関わりを作ってなかったりします。
厠(トイレ)の小窓からは最高の庭が見れたり、
大体が客間は2つあって縁側廊下の手前と奥にあります。
きっと奥には大切なお客人、
手前には簡単な所用のお客人なのでしょう。
大切なお客人は縁側を歩く事で庭を楽しむ事が出来きます。
庭の中を歩いて離れの客間に行けるパターンもありました。
イメージの所在、
この違いが情報伝達の在り方や「飾る」意識に影響があるのではと考えています。

実際にこれをタイポグラフィに変換した時にどういう変化があるのでしょうか。
答えは簡単です。
タイポグラフィそのものに破綻をきたします。
何故なら、日本語書体に飾りは不要だからです。
そういう意味でも朗文堂がおこなっている文字の再考というのは正しいと思います。
多分、わかっててやってるんじゃないかなと。
日本語の書体は飾っては成り立たないのです。
ではどうすればいいのでしょうか。
日本語書体に合う花形装飾活字は可能なのでしょうか。
単に整理するだけなら罫線やベタの塗りだけで十分です。
それじゃカッコ悪いんです納得いかない。
もしそうならむしろ活字での印刷ではなく、
キチンとした書道を版として刷った方が文字としての再考は正しいと思います。
どうせ追求してたらそっち逝っちゃうんだから。
でも、そうじゃないと感じるからこそ活字にしがみ付いているんじゃないでしょうか。
う、話が変わってしまいましたが、
つまり花形装飾活字のローカライズは可能だという事です(どういう事や…)。

イメージの所在。
そこまで辿り着いた時点で実は作業が止まります。
可能性は導く事は出来たものの、
上記のように実際に形にした時に、
装飾としての性能と整理としての性能を、
実際に日本語書体(英字書体も含めて)で生かす為の「図案」で成り立たせる事が出来るのかどうか、
という点において合点がいく答えが出なかったのです。
ので一旦形を模索するデッサンをおこなう事にしました。
その中で1つの回答を得る事が出来ます。
当初、人を中心とした建物と庭の関係を、
建物からのアプローチで人が見る庭という視点の図案を描き続けていました。
が、上手くいかない。
やはり、情報の在り方としての整理性が保てず、
文字と配した時に単なる挿絵のようなものになり、
花形装飾活字ではないものが次々と出来上がりました。

そこで、
数奇屋家屋調べていた時のある茶室の存在を思い出します。
その茶室は屋敷の中にあるにも関わらず、
庭との一切の関連性を断ち、
少し歩いた小さな竹林の中にありました。
相当広いお屋敷だったので、
もしかしたら有名かもしれません。
その茶室への道のりは次の通りです。
まず、
玄関を入り、
廊下に通されます。
廊下の右手には庭があり、
つまり上記で書いたような流れがあって、
廊下を降り庭の中を歩きます。
しばらくすると小さな門があり其処で手を清める事が出来ます。
くぐると竹林が広がっており道は無く、
石畳がただ茶室までの道のりを示しているのです。
その写真が凄くカッコよかったのを覚えています。
竹林は美しいのだけど、
むしろ規則的にアシンメトリーに並べられた石畳と奥にあるであろう茶室の存在が、
ああ、これだなと思いました。
たしかに他の数奇屋家屋も、
茶室に関しては異質というか別の扱いをしているような気がしましたし、
多くは廊下や部屋からは一切入れず(隣接しているのにも関わらず)、
庭から入るという手法を取っており家としての機能ではなく、
茶室の為に庭があるのだとも感じました。
そしてそのほとんどが誘導の為に「石」で道を作っており、
それをフォローする為に植物があるようでした。

後半、文体崩れましたが、
まだまだ続く。