花形装飾活字を愛でる その119

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集合体としてのイメージについてです。
つまり個々の造形ではなくって、
活字として組んだ時のイメージ構築の拠所についてです。

復習として、
過去の西洋のものは、
「飾る」という要素と「組む」という要素の2つを両立する為に、
直線と曲線の部位をある一定の計算の元(例えば片方ずつ)で、
罫線として役割と装飾としての役割を1つの図案に設けるというものでした。
その結果、
個々の図案に役割を与えつつ、
上記のルールを守る事で、
組んだ時の統一性と整理性、
そしてなによりもの美しさのイメージを構築する事が出来ました。
それは英字との関連性を重視し、
情報の端末として、
なおかつ活版という技術においては、
最高の装飾術までに高めました。
もちろんそれは、
英文字においての長所であり欠点でもある、
文字そのものの無装飾性と、
それが故の情報の階層化と区別化の下手さをフォローしたものでした。

では、今回の「水草」では何をすればいいのでしょうか。
日本語書体は、
それそのものが装飾の為、
西洋のような装飾まで高めると、
画一的な紙面になる事は今までも書いてきましたし、
どのように落としこんでも、
組み合わせる事で複雑さを生み、
結局同じ事になるのです。
それよりも大きな問題点があります。
それは縦組みが出来るという事です。
縦組みと横組みを合わせただけで、
既に情報の区別化は文字の大きさが同じでも可能であり、
大きさだけを変化させたとしても、
その階層化は可能となるのです。
縦組みと横組みそのものに合わせる事の出来る、
また、英字にも対応した花形装飾活字、
それは一体いかなるものなのか、
思考は続きます。

ヒントはやはり庭にありました。
散々書いてきましたが、
西洋の庭は囲い、形を定着させる事が基本となります。
これは今までの花形装飾活字にも同じ事が言えます。
ところが日本の庭は囲ってはいないのです。
「飾る」ものではなくクッションのようなもの、
場を支配する空気を柔らかにするもの、
彩るのような主張ではなく、
主役を引き立てる緩和剤のような存在だったのです。
そしてこの場合の主役とは、
ずばり活字の事を言うのではないでしょうか。
実はもう一つ重要な違いがありました。
「イメージの方向」です。
前にイメージの所在と書きましたが、
それとは別に、
圧倒的に日本の庭は「内から外(つまり外から内にイメージの流れがある)」を見るものになっているのです。
逆に外から見ても何も面白くないものなのだと思います。
これは西洋の庭が、
建物を彩る、または庭そのものを楽しむ美意識が「外から内(つまり内から外にイメージの流れがある)」にある事が、
花形装飾活字に多大な影響を与えているのですが
まさしく、
文字を飾るのではなく、整理する訳でもない、
脇役としての存在が、
日本語書体に合う花形装飾活字になるのではと考えたわけです。

いよいよ本題に入りそうな予感。
つづく。