花形装飾活字を愛でる その173

エンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
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では「fuji」はという話。作業そのものは今までと同様にグラフィックデザインだったと言えるし、それが花形装飾活字と分類されるものの範囲であったとも言える訳です。結果、文字になんらかの現象をもたらす事が出来たんですが、個人的な解釈としては、それが単に花形装飾活字と分類されているというだけで、文字そのものや装飾そのものの単体がもたらす現象ではないと見ています。例えばそれは写真でも可能だと思うし、何かの組み合わせにおける、一種の麻薬のような快感に近いような気がしています。その中で文字というイメージの塊のような産物にこそ、花形装飾活字が合うという事になります。日本語の書体が、よりスタイリッシュで味気の無い軽めの書体になってきているのは、それをとりまく環境や技術、イメージが本来の文字が持つ強さを補えなくなってしまっているところにあるからで、それが単に嗜好や方向性によるものだという判断は少し早いような気がします。この花形装飾活字だって、そうした文字の変化に呼応して新しい形になるべきだったし、そうなる必然にあったのだけど、何故か装飾の部分の快感のみがクローズアップされて、イメージの淘汰が起き、結果、捨てられたっていう…。なんでこんなに僕がこの花形装飾活字を押してこうやって活動しているのかは、ずっと書いてるけど、それがグラフィックデザインだったからで、まだまだ可能性というか、方法論として、キチンと考えられてきてないなという感覚と、いやいやまだまだ過去の遺物にするにはまだ早いでしょ、っていうくらい現代のグラフィックデザインの荒みかたが半端なかったんですよね。とくに僕なんかはコンピュータ世代から入った訳だし、その中においてこうやって、花形装飾活字に出会えたことは別に変わった事でもなく、必然なように思います。それは懐古や回帰的な考え方じゃなくって、文字を単純にかっこよく見せる手段として追い求めた結果の選択肢の1つとして充分に使われるべき対象だったんですよね。で、ここからが今日書きたかった事なんですけど、これはあくまでグラフィックデザインという世界での研磨でしかないんだけど、実は文字という考え方は、グラフィックデザインではないような気がしていて、境界線を引いた時に、どうしても文字を入れて考えると少しズレテくる感じがあって、これは一体なんなのかと考えた時に、文字をグラフィックデザインを使って考えるという視点で見ると、ピタっと合う感じがしたんです。つまり、今まで文字をかっこよく見せようとしていた行動というのは、文字もグラフィックデザインの境界線の中の出来事ではなく、それをグラフィックデザインという技法で内包する作業だった訳です。この考えが出た時に、もし、絵という1枚の平面に表示される要素の中で、それがグラフィックデザインかという答えに大きな疑問を残すものとなりました。重要な事は、文字は文字、写真は写真、絵は絵であるという認識であって、それらがグラフィックデザインであるというのは違うのではないかというものです。で、で、そこで花形装飾活字の登場です。この花形装飾活字というのは、これそのものがグラフィックデザインであるとホントずっと書いてきましたが、この感覚というのは、文字は文字、写真は写真、絵は絵という要素にグラフィックデザインを内包させる行動そのものに圧倒的に近いんですね。むしろそれを具現化し、唯一、こんなにも文字という対象に近づく事の出来た現象だったんですよ!つまり、これは写真や絵には真似が出来ないというものです。それはもちろん花形装飾活字がその領域を出ない発想であるのと同義ではあるんですが…。絵や写真をグラフィックデザインとするなら、装飾やイメージの部分の快感のみに浸るのではなく、グラフィックデザイナーなんて名乗るんなら、そこらへん一度整理して考えてみるべきな気がします。もしね、文字という対象が常にそこにあるならね。花形装飾活字をそういう感じで一食沙汰に見ないでねという話でした。

次回から「fuji」の解説に戻ります。