花形装飾活字を愛でる その172

エンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
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なんか話が変わってきたので「fuji」の事はひとまず置いといて、気になるのは、グラフィックデザインがなんでこんなにカッコイイのかという事なんだよね。それは花形装飾活字がカッコイイと同義なような気がしていて、某有名な人はデザインは未知化する事とか言ってるけど、とくに視覚に起因するグラフィックデザインなんかは、むしろ「知」の部分が大半を占めてるんじゃないかな。視るという感覚は他の感覚よりも優れていると思っているし(情報の収集という意味で)、それが記憶として残る大部分を担っているとも思っているんだよね。その中において未知的な感覚というものが果たして存在するのかという事だよね。視た事が無いものを視た時の感動は一入に募るものだが、それもやはり視たという記憶の感覚の再構築にこそ、その感動がある訳で、脳が感じる「未知」という感性が織り成す奇跡とやらも、なんとも疑わしいものだと考えているんだよね。重要な事は、それを知らない事や知っている事などではなくって、それを視たという現実であり、リアリティにこそあって、それを感じている人間自身は実は脳という記憶装置に従って感動しているにすぎないというのがボクの考えな訳です。あくまで装置の機能であり、視るという動作になんら関係のないものだと思ってます。それは「想像してから視る」いう事と「視てから想像する」くらいの違いはあるのかなと。グラフィックデザインはどちらかというと後者ですよね。そして花形装飾活字も明らかに後者という事になる。カッコイイと感じているのは脳や魂が原因とする人間の根本ではなくって、視たという感覚そのものであり、それをただ感情という装置が反応しているにすぎないという視点。要するに花形装飾活字と活字(文字)の関係ってそこにあるような気がしていて、花形装飾活字という彩りというのは想像する活字の世界のなんら1つの要因にもならないものという定義で間違いないように思うんだよね。現在ではイメージが文字に相乗効果を与えるようなものがグラフィックデザインとして用いられているけれど、そもそもグラフィックデザインがコミュニケーションの一因なのであれば、イメージが先行するようなものは果たして正解かどうかは大きな疑問の余地があるように感じます。もしね、それがグラフィックデザインならねという話。それがグラフィックデザインという領域で作業するなら、イメージの先行とグラフィックデザインは同じにするのはあまりのも危険ではないのかな。そこにコミュニケーションが生まれるかどうかは実際の人間社会における、ある種の勘違いの連続のようなものに似ているような。で、多分それが底辺にあって、あの某有名な人は「未知化」と言うてるのではないのかな。ただ知らないものにするだけでは少し浅はかなもののような気がするし、花形装飾活字も実は「未知化」が可能で、ただそれが、デザイン、もしくは、グラフィックデザインに繋げるには少し暴力的な気がしていて、違う某有名な人は「視た事が無いものを視たいだけ」とも言ってる。感覚的にはそれが一番近いと思うよね。花形装飾活字と活字の関係って、活字というものを花形装飾活字を使う事で視た事が無いものにするという感覚。ただそれをまた「未知化」ともいうが、それがグラフィックデザインという動作かどうかは、踏み込みすぎかなという感じ。