東京を知った

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知ったと言うには、烏滸がましいし、住んでる人からすれば、知った内に入らないのだと思うのだけど、幻想というか、彼処で何かが起こっていて、それが僕達に影響をしていて、其処からは逃れられない何か、というか、魔力みたいなものがありました。今回、東京行脚と称して出向いた目的の1つでもあるのだけど、それらを確認する事だったのですね。それと、迷っていたのです。このまま大阪で活動を続けていて大丈夫なのか?東京の方が前に進めるのではないか?その答えを確かめる為に、今回の行脚がありました。なんとしても答えを出す必要がありました。ここ、大阪に居るとやるせなく、動けなくなっていたのです。心が定まらない時間が続いていました。でも、それは幻想な訳で、その幻想のまま、東京という話しではイカンと感じたのです。地に足を付け、踏ん張って、根を下ろし、そうしないと、其処で必死に頑張っている方達に迷惑になってしまいます。その答えを、その現実を知る為に、fengfeeldesignとしての東京、5日間だったと思います。正体を見極めたかったのです。fengfeeldesignとして、東京を5日間ではありましたが、1つの解答として「哀れみ」という言葉を付ける事にしました。5日間、東京を自分なりに最大限に味わった感想が「哀れみ」でした。この場所で、一体何をしようと言うのか、僕は怖かった。こんな場所で人が住み、活動を行い、それが満遍なく行き渡っているのです。怖くて、怖くて、3日目には正直な所、逃げ出したくなりました。こんなにモノに、人に満たされているのに、街に覇気が無いのです。全てが流動的で止まっていない。街行く人達は自信に溢れているのにも関わらず疲れているように感じました。希望に満ちあふれていて、常に人が居て、しかも、その人達があまりにも有能で、居てもたってもいられない、その連続。人の意志や意気が入り乱れていて、謎の加速を与えられてしまうというか、決断をしなくてはいけなくなる感覚。全ての人達が用事を持っていて、やる事があって、何も無い、何もしていない、事が、きっと、存在の無しや、死に直結しているんだと思います。

居場所を探しているんだと思います。なんかこう、自分の中でさっぱりしたものがあって、そういう場所を探しているような気がしました。場所というのは、何かをしにいく場所であって、定着の無いもの。ひどく広い地元に住んでいる感じ。街に出れば、何かしていて、キチンと休日を過ごしている感覚になる。所有感の無さ、果たして、ちゃんと人と会えてるんだろうかな。ゆっくり喋って、飽きるまで居て、そういう時間を過ごせてるのかな。東京に居て、鈍くなる感覚が1つあって、味わってはいけない快感のような、一度味わってしまうと、物足りなくなって、ドンドンと追い求めてしまうような、規模や物量によって、確実に鈍くなっていく自分に、かなり疲れてしまったように思いました。何もしていない人が居ない。暇そうな人が居ない。自分も何かしなければならんという、謎の追い立てようなものばかりが、この5日間の彷徨いの中で一向に駆け巡っていました。あえて、人々は、ゆっくり出来る場所を作ろうとしているようにも思います。最近のアートの流れは、此処から来たのだなと実感出来たし、それは逆に、こんな所でクリエイティブが成立するのか、という疑問と「哀れみ」を感じたのです。こんなに流動的な場所で、しっかりと定着した技術やモノ作りが実現可能なのでしょうか。多分、スゲー早さで、いろんなものが生まれてくるだろうし、捨てられていくと思うのだけど、技術は果たして、それに着いていってるのでしょうか。体が引き裂かれそうな想いになります。幻想が、現実となって、押し寄せてきたのもあるし、あまりにも「在り」すぎて、息つく暇が無かったのです。僕は作るという動作は「暇」によるものであると考えていて、その暇の練度こそが、作るものへの執着心に変わると信じています。何もない事、空虚のあらまし。呪い。東京にはそれが無かったと思います。

東京で作るという行動を興す事は大変だと思います。だから、変えよう、何かしようって話しじゃなくて。そんなに大それた事を東京に確認しにいった訳ではありません。fengfeeldesignが、其処にあって、fengfeeldesignとして居る事が出来るかという事を考えにいったのです。fengfeeldesignが斯様に面白くなったとしても、それが本来あるべき姿かどうかというものが定まらなければ意味がありません。世界そのものになるつもりは無いのです。世界に対して反応するものであるのが、fengfeeldesignな訳で、東京という場所で、人と接する事がfengfeeldesignにとってどうであるかと調査したのです。あくまで、fengfeeldesignの視点として、東京に関わる事が、その場所にとって有益で面白いものになるかどうかを真剣に見定めに参ったのです。ホントに申し訳ないのだが、答えは「ノー」でした。そうなんだよね、結論は「ノー」だったのです。思いも寄らない答えだったものだから、数日間、このfengfeeldesign視点での文章を書くかホント戸惑いました。でも、これは、あくまで、人と会って居ない時間、東京という場所を粘っこく歩いた感じた感想なのをまずお伝えします。少なくとも、場所としての東京にfengfeeldesignは必要じゃないと思います。東京という場所の必要感に合わせるなら、それも可能かもしれないが、残念乍ら、fengfeeldesignは、それを否定しているがゆえ、「ノー」だったのです。多分、これから、何故、「ノー」であったかを書いていく事になるんですが、今一度お断りしておくと、これは、あくまで、fengfeeldesignの視点である事と、東京5日間にお会いした誰にも該当する事では無い事をお伝えしておきます。この「東京を知った」は10回くらい続くと思いますが、その全てが、東京に住む人達では気付けないであろう、大阪の隅の偏屈な自称デザイナーが見た東京観であり、かなり偏っている事は、お分かりでありましょうが、これもお伝えしておきます。長めの前振りでしたが、誰が読むんだこんなものwと感じつつ、筆を進めたいと思います。