花形装飾活字を愛でる その171

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エンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
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ただ、あくまで設計という概念の話であって、実際の利用において結局は花形装飾活字の域を出ないというのが実際の話。それはもちろんそれが花形装飾活字であるが故であり、それとは違うものを作るというのは、その領域において、やっぱなんか違うんだろうなあというのが本音の話。これはいつも書いてるけれど、単に装飾ならそれを描いた方が絶対にいいし、花形装飾活字風とか的なら、最初からそのスタンスでやるものね。とりあえず大きい声で言うとくと、ここにあるのは全て花形装飾活字で間違いはないと思うし、それに恥じないクオリティまでに高めていると思う。これはグラフィックデザインの領域が、その外に出ないのと一緒で、その利用においてのレスポンスこそが、後のクリエイティビティに影響を与えているのだと考えられるし。つまり、これそのものの要素が魅力的なのではなく、それを取り巻く環境において、今、花形装飾活字を改めて提示する事にこそ魅力が存在しているという感じ。ありとあらゆるイメージがテクノロジーの進化によって自由に操作出来る現在において、これからももっともっとテクノロジーの進化によって、その自由度の幅は広がっていくものだと考えられるが、果たして中身はどうかというと怪しいものである。なんというか、重要な部分がスッカラカンではないかという恐怖観念さえ沸いてくるほどだ。その中において「fuji」の開発の在り方は光を与える方法論だったように思う。結局、私達は何を見て何を感じて生きているという根本を掘り起こす作業にこそグラフィックデザインはあるのだから、新しさや快感、エッセンスの部分よりも、普段の自分達が何をみて心地よく思っているかをグラフィック化する意義に関して「fuji」は問う事が出来たように思うんだよね。なんだかんだいって、これからも「文字」そのものの利用は終わらないだろうし、もし「文字」を使っていくのだったら、花形装飾活字という1つの答えを使う事は間違いじゃない。最近はとくに日本語の「文字」そのものの装飾性は削ぎ落とされて、判読性における機能がクローズアップされるようになってきた。悪くいえば味の無い無機質でなものが増えてきているように思う。現代において、それがカッコイイと認識されているし、グラフィックデザイン、もしくは紙面のデザインが欧米よりの現在は、少なからず日本語に対してコンプレックスはあったろうし、それは極々当然の流れのように感じる。そこで1つの疑問があって、読むスピードや判読性の心地よさは、「文字」という心地よさに依存したものなのかどうかという点である。いわゆる日本の美に通じる情緒的な読みにくさというのは、果たして心地さではないという判断で正解なのか。ていうか、日本の美というのは、そこにあったのか?なんであえて、それを消して美を求めるのか。それが日本語なのに?